玉造&商店街History HOME
昭和20年(1945年)まで
わが町大阪 著者 大谷晃一 より
昭和20年(1945年)以後
昭和20年10月 鈴蘭灯 復活
昭和21年 2月 市商連 入会
昭和27年 5月 玉造日之出通北商店街協同組合 設立
現理事長 山岡保雄 就任
昭和27年10月 街路灯 設置
昭和45年 7月 アーケード 竣工
昭和53年 4月 カラー舗装 竣工
平成 6年 8月 カタリーナホール玉造 着工
平成 7年 2月 カタリーナホール玉造 竣工
平成14年10月 アーケード 着工
平成15年 4月 アーケード 竣工
平成15年 5月 理事長 小橋 忠 就任
古代、このあたりは玉作岡と呼ばれていた。上町台地の
東側である。かなたに生駒の山並みがながめられた。
前は河内の入り海だった。瀬戸内の海を東へたどった船は、
入り海に回って穏やかな森の宮や玉造に着いた。
難波宮のそばである。大陸文化は、ここに陸揚げされた。
『日本書妃』の仁賢天皇の条に、難波の玉作部のことが出ている。
玉作部の人びとがここに集団で住み、勾玉をつくつていた。
勾玉は昔の装身具で、三種の神器の一つである。
玉造稲荷はそのころすでに鎮座していた、という。
明応6年、蓮如が石山本願寺を摂州東成郡生玉庄内の大坂に建立した。
寺内町が広がり、大坂の名が使われはじめる。
生玉庄はいまの大阪城や難波宮跡から玉造もふくんでいた。
玉造は、大阪の起原の地である。
空堀町にある善福寺は、どんどろ大師として名高い。
近松半二らの浄瑠璃『傾城阿波の鳴門』の八段目、巡礼になったお鶴が、
大阪へ出た父母の十郎兵衛とお弓をたずねて来る場面が、
どんどろ大師を背景にしている。
どんどろは土井殿のなまりで、天保のころに大阪城代の土井利位の
屋敷内にあった。芝居名所になって、お大師さんの日はにぎわった。
日の出通りは、市電玉造終点からやや斜めに東南へ500メートルほど続く商店街である。
明治33年ごろは一面の桃畑であったが、玉造座が建ってから発展し出した。
省線の城東線の玉造駅が開業したのが、同28年だった。
現、JR大阪環状線。当時は鉄道省の管理する鉄道線だから、省線と呼ぶ。
同45年に市電が玉造から末吉橋まで開通し、花園橋まで直通運転した。
長堀橋、心斎橋、四つ橋などの都心と結ばれた。
このあと、大正10年に下味原町や寺田町を通って阿倍野橋まで市電が通じた。
日の出通りの繁盛は砲兵工廠と大きな関係をもつ。
通りはやがて鶴橋に達している。工廠に働く人たちは玉造界隈にもいたが、
小橋、鶴橋、桃谷、生野などに多く住んだ。
その通勤路にちょうど当たった。
東の中道や中本も、人口が密集している。
大阪市内でも、心斎橋、九条新道、天神橋6丁目に次ぐ商店街になっていた。
玉造というのは、もともと空掘通りから北をさす。
豊臣時代は大阪城の惣構の内で、大名屋敷が並んでいた。
細川越中守忠興の屋敷もあり、いま越中井が残っている。
慶長五年の関ケ原の戦いの前、人質になるのを拒んで、
忠興の妻たまが死を遂げた。ガラシア夫人である。
大阪城の第一線の防衛のために掘られた空掘は、大阪冬の陣のあと
徳川家康によって埋められた。この屋敷町は、次第に細かい家が
建て込んだ下町になって行く。広小路町も寺山町も、である。
市電道の北側は、いま中央区である。空掘の南の、五百石分の朱印地を、
慶長8年に玉造稲荷社が秀頼からもらつた。
現在の玉造本町付近である。その東の日の出通りは玉造元町になっている。
玉造終点から少し入ると、左側に朝日座という活動写真館があった。
裏の長屋のあるのが黒門町である。
その名は、省線玉造駅西側のあたりに大阪城玉造門があって
黒く塗ってあったことに由来する。
日の出通りは商店街の名で、正式な町名は別にあった。
東側は黒門町、唐居町、西側は山之下町、南玉造町、木野町と、続く。
日の出通りには、活動写真館が3つと寄席が1つあった。
玉造座、朝日座、ヤマト館、それに三光館である。
むろん、正月は晴れ着の客で大入りだった。
日の出通りに鈴蘭燈がともったのは、昭和3年である。
鈴蘭燈のある商店街は、大阪市内でもまだ珍しかった。
城東線の京橋・天王寺間の高架が、7年3月に開通した。
このとき、森ノ宮と鶴橋両駅が新設される。
砲兵工廠は大正12年に陸軍造兵廠大阪工廠と改称し、
大兵器工場になっていた。
ここに働く者がふえ、日の出通は繁栄する。
20年6月1日、玉造から上本町2丁目までが焼野が原となったが、
15日にまたもや大阪大爆撃があった。
夕方、見に行くと、とうとう丸焼けになっていた。
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